〈WGBH〉BSO シューマンPf協、ブルックナー9番(2019年2月)

※2月12日の記事に追記の上再公開。

2019年2月16日 ボストン、シンフォニーホール
アンドリス・ネルソンス指揮
ボストン交響楽団
ユジャ・ワン(Pf)

シューマン:ピアノ協奏曲
(アンコール)メンデルスゾーン:無言歌作品67-2
(アンコール)シューマン:「スペインの歌芝居」より密輸業者
ブルックナー:交響曲第9番

The Poetry of Schumann, with Yuja Wang
(WCRB 2019年2月16日 20:00~ライブ)
※再放送2月25日

プログラムノート

前週のコープランド(→〈WGBH〉BSO コープランド3番、シマノフスキVn協1番(2019年2月))に続く、ネルソンスのBSO連続出演第2週。
シューマンのソリストがユジャ・ワンというのはちょっと意表を突く感じ。そしてブルックナーは、BSOとGHOで相前後する形で3、4、6、7と演奏されてきて、今回の9番も昨年12月にGHOと演奏したのに続く形になる。シューマンも今年1月にエレーヌ・グリモーとの共演で、ヨーロッパツアーにも持って行ったばかり。どちらのプログラムもラジオ等の中継がなかったため(ブルックナーは後日CDになるはず)、GHOとの演奏がどんな感じだったかは今のところわからないのが残念ではある。
放送後に追記予定。

(以下放送後追記)
前半はシューマンのピアノ協奏曲。ネルソンス指揮によるこの曲は、CBSO時代の録音がリリースされているが、その時のソリストはスティーヴン・ハフ。その端正で透明感のある演奏と、ユジャのやんちゃに跳ね回るような弾きぶりは正反対と言ってよく、ネルソンスによるオーケストラの取り扱いもそれに合わせてかなり違ったものになっている。もちろんリリックに歌うところもあるが、随所に揺らぎや弾みがつき、硬めの音で激しく突き進むことも多い。ユジャのピアノはそれに輪をかけて激しく、第2楽章の叙情的旋律もねっとりとルバートをかけていく。
個人的な好みを言えば、こういうタイプのピアニストはチャイコフスキーくらいまで下ればまだアリだけれども、シューマンではあまり聴きたいとは思わない方だ。それでも隙のない技術や、奔放なようでしっかりとコントロールされた発音の鮮やかさは流石のものがある。
別の日の演奏だが、SNSに演奏の映像が公開されている。これを見るとネルソンスもけっこうユジャのノリで煽っているようでもある。



さて後半だが、ブルックナーというのは私にとって普段は進んで聴く作曲家ではなく、9番もろくに聴いたことがなかった(今回の放送を聴くために手持ちの録音で「予習」したほどだ)。世のブルックナーファンの方に怒られそうで、以下は正直なところ書きにくいのだが、そういう人間の素直な感想と思っていただければと思う。
ブル9について色々検索したら、荘厳、深遠、崇高、超越、この世のものとは思えない……等々、凄い表現がごろごろ出てきたが、私が今回のブル9に与えたいと思った形容は全く別のものだった。ネルソンスは「”これが正しい”というテンポとか解釈はない」ということを時々言っているが、言い換えれば、どの解釈にもそれ固有の正しさがある。

3番から一貫している彼のブルックナー像はここでも大きな変化はなく、縦のどっしりとした構えよりは、メロディラインを重視した流れるような歩みを基本としている。それも大河のような滔々とした不変の流れではなく、半ば迷うような感情の移り変わりに応じて、テンポも自在に、しかし途切れることのないつながりの中で変転していく。形式ばった、あるいは近寄り難いというようなことはほとんどない。
全体として大きな物語性を感じさせる一方、オペラ的なエモーションの爆発とはもちろん違う。冒頭の金管の響きや、第1楽章の終わりやスケルツォの場面の変化など、どことなくシベリウス的なサーガ、あるいはチャイコフスキーのマンフレッド交響曲に通じるような、叙情と叙事の混淆というような感触を持った。

最近ではラトルなどが第4楽章補筆版を演奏していたが、ネルソンスのこの演奏は、解釈としても3楽章で完結した感じがある。最後まで畏怖と不安、希望の入り混じるような情感豊かな語り口で、ヒューマンな視点を失わないのは、ネルソンスの一貫したブルックナー理解の柱だろう。金管の響きなども圧倒的、超越的というよりは場面場面でダイアローグや苦悶の声の一部となり、共に等身大の感情の高まりを表現している。柔らかな弦楽器主体のサウンドは、最初の頃の3番などと比べるとかなりGHOの雰囲気に近づいたようにも思う。マーラーの緩徐楽章とか、また後半は「死と変容」なども思い起こさせる。

テンポはそれぞれ24分弱、11分弱、23分台後半で、ところによるものの比較的前向きに進んでいる印象だった。その一方で、あくまで私の感覚なのだが、グランパウゼの扱いが少し変わっただろうか? 今までのネルソンスのブルックナーではそもそもあまりグランパウゼを意識させず、あってもごく自然体で、「いかにも」なブルックナーパウゼというのが苦手な私にはとても聴きやすかったのだが、今回は多少空白が目立って聞こえた。とはいえ勿体をつけたとか、大げさに荘厳さを演出しているという感じでもない。
やはり、昨年12月のライプツィヒの方がどうだったのかがかなり気になるところだが、そちらはいずれCDになるのでそれを待とう。

*  *  *

なお上記WCRBのページにはユジャ・ワンとネルソンスのインタビューが掲載されている。ネルソンスはブル9について話しており、他の交響曲に比べてより疑問や不安を感じる冒頭であり、疑いを含んだヒューマンで率直なブルックナー像であると。ブルックナーは信仰深い人だったが、人生の終わりが近づくにつれ生きる意味への問い、疑い、死への恐れを抱えていた。その一方で信仰がもたらす希望もあり、最後のワーグナーチューバのメロディは天国へ向かう。しかし第1楽章はまだ疑いに満ち、第2楽章はブルックナーのスケルツォの中でも特異で、神秘性や恐怖や狂気さえもを感じさせる。
第4楽章が書かれなかったのには理由があり、ブルックナーは意識的に未完成にしたのかもしれない。我々は生が完結した後にあるものに対する何らかの信仰を持って生きていくもので、自分の場合はクリスチャンだから天国を信じることになるけど、生きる意味というのが生の中で完結することはない。同様にこれは第3楽章で完成されていて、第4楽章は推測(speculation)にとどまるというのがネルソンスのイメージだそうだ。

この記事へのコメント